事実として

私もそうです。軽々しくそういってはいけないかもしれないけど。
いつも思うけれど、カラ、自分がないということをネガティブな文脈ではなく事実として書ける人に私ははじめて出会いました。多分、いつも私はそこを「ただ事実として」掬い取ってもらいたかったんだと思う。
そこを事実として認められなければ進めなかったのかもしれないなと思います。

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070507/p2

「カラ」の自己を<私>に認知させるときというのは、恐怖を伴うものだからそこから逃れようと身を捩るけれど、「恐怖」も「無」も常に横たわっているから、更に「不安」になるのでしょう。
事実として理解されないということがどれほど苦しいか、ということを私は知っています。苦しさすら偽物であるといわれれば、現実に居る私は苦しさを放棄するか、自己を棄てるかしかないという選択肢しか与えられない事も知っています。共有する幻想が「嘘」「欺瞞」「苦痛」でしかない人間にとって、あのときあった、そして今もここにある「事実」にすら目を向けられなかったなら、一歩も進めない。