シンタグマティズム性による統合とメタ物語

やっと読めた。「ゲーム的リアリズム」は、私自身興味があった。

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キレイは汚い、汚いはキレイ

名前を忘れるという感覚は、言葉を覚えるのではなくて思考を取り込むということと似ている。言葉そのものの象徴を取り込み、一まとめにする、という一種の取り込み手法だろう。ただ、それは「簡易」にするために執り行われる為、「言語」そのものは処理段階の初期で捨て去られるのかもしれない。固有名詞が覚えられる場合は、それが何かを象徴するために「必要」であったり「多義的」に意味を含んでいるような象徴的な言葉である場合だと思う。ラベルは、言葉にする時に必要となる棘やマッチ針のようなものだ。刺繍や仕上げをするときには、そのマッチ針は抜けている。言葉として出すどのような言葉も、それ自身を顕現させ露出し固定化する。私はそれに名前をつけ、「顕在化不安」と呼んでいる。
結局のところ「何かに向かう」ということは「怖いということは怖くない」――「偽は真である」ことを証明する為に尽きるのだろう。そうではない場合とは、「嬉しいというものは嬉しい」――「真は真である」という平穏はそこにある。「怖いということは怖くない」ことの証明とは、危機的な状況と、敵意と、異質な他者――そして自己と他者にある引力から逃れ、戦っているためでもある。そう、他者には「引力」というものがあり、そこに引きずり込まれる感覚は存在する。そして「怖い」と知覚して関わっていくと、その「怖い」と見做す対象に「怖い」と感じることがあり、「引力」は「斥力」となり反動を引き起こす。
「怖いということは怖い」ということを「怖いということは怖くない」*1とするための対処法、または、「怖いということは怖い」こと――つまり、私自身の限界を明確に理解することで「怖いということは怖くない」とする可能性の手立てに対する現実的な対処法を、私はいつも考える。何もないわけじゃない――主体が持つ経験によってそれ自体を「共感」と変え、その行動の結果をどのように受け止めるかによって、そうして分離してしまったことの状況や事実を、変えていくことができるとすればいいのにと考えている。
私だけが私だけの事実を知っていても、そこに他者が介在し、何かを「記述」し「行使」することで証明を以って「自分」を自分として、自己へと指向を向けて語らなければ何も伝わらないのかもしれない。大きすぎる膨大な影を実態に変えられるのは「私自身」にしかできないことなのだろう。

*1:これがキレイは汚い、汚いはキレイの意味かな、と最近考えている。

大脳とアナロジー/ホログラム仮説

ホログラムにはいくつかの魅惑的な特性がある。対象表面の一点の情報はホログラムの全体に分布して記録される。逆にホログラムの一部をとっても対象全体の情報が含まれている。ホロ(全体)という名称はこのような性質からきている。記録に用いる光の周波数を変えれば、多重記録が可能であるし、独立に再生もできる。
これらの性質はいくつかの重要なパラドクスを解決する。大脳皮質機能の局在論は、皮質の欠損によりおこる巣症状、皮質の電気刺激による反応、記憶の想起などの空間的対応に基礎を置いている。しかし、皮質の一部を切除しても記憶が保存されるというパラドクスが存在する。記憶がかなり広範囲に分散し、重畳して記録されるという事実はまさにホログラムの基本的な性質に一致する。イメージなどの情報検索は、記録時に用いた周波数の選択により、瞬時に行なわれる。時系列に沿っての継時的記録や空間的スキャニングつまり「注意」によって選択された一連のイメージを記憶することなどは、大脳皮質を3次元のホログラムであると仮定すれば説明が可能である。これは記憶や認知における連想性の説明にも都合がよい。さらに波動性を利用した演算により、パターンの空間周波数フーリエ解析で周波数成分間の比率を比較することで知覚の恒常性は保証ざれ、その他の冗長性の要因にも安定である。パターンのマッチングに必要な莫大な相関行列の計算も同様に瞬時に行なわれる。

http://ot.dept.health.gunma-u.ac.jp/~shiihara/holo/kasetu.html

精神分裂病――現在の統合失調症という病名ではありますが、昭和60年の論文(の出していない分)なのか……。仮説専門領域というものもあることを知った。
大体、論文というのは質的研究、量的研究、統計研究、あと他にもいろいろあるのだろうけれども、昔の仮説といってもすごく面白いと思う。これは、一般的な汎化にも適用できそう。

Security hole hacking - 2


 真実をウソ<虚構>とし、ウソ<贋作>を真実とし、ウソ<贋作>をウソ<虚構>とする。
 虚無は怪物を誘き寄せ、怪物は虚無を誘う。
 コエは放置され、ジジツは仮託し放逐される。

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作者

作家、というものについていくつか考えたことがある。私はこれまで、世界観が大切、文章が大切、視点が大切、といろいろ聞いた。そして、その中でもっとも大切なものは世界観である、とも聴く。また、それを総合したある種の「政治性」を持ったものが大切、ということも言えるのかもしれないとも思う。面白い作品には、何がしかそういった「何か」を含んでいるような気もする。しかし、それは「出来上がった後」の結果論でしかないのかもしれない。
一人の作家の歴史を追ってみると、確かにそういった痕跡があることも観察することはできるけれども、それは「何かからの逃走/または闘争」であったのだろうかと考えることがある。抗い続け、そして「諦念」を抱くようになる。その「諦念」には「それ自体」が在る、ということを指し示すような描き方によって、それが自分自身に存在していたのだと理解するような形で現前するような「何か」である。物語はそれだけで人間が物語の中に埋没し、キャラクターを演じ、結末に向う「何か」へと目を遣ることになる。前期、中期、後期と分解するとわかりやすいかもしれない。
「結末がないこと」。そんな感覚がある作家というのはセカイ系、といわれる作品を描く作家にいるような気がする。ただ、それらはセカイ系という体系におさまっているわけではないのだと私には思える。