傷のはなし

耳の掃除をし過ぎたのか、外耳炎になって膿が出てきたので病院にいく。病院にいって治療してきたはいいものの、その帰りに「下り」の段差があることが見えずに、足を踏み外しこけてしまった。これは「気づいていなかった・知覚できていなかった」のだろう。

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パーソナリティと自己評価

ネット界隈で、釣った釣られたがこれほど問題になる原因 - シロクマの屑籠
私は、他者評価ではないけれども、その方のパーソナリティというものを考えていて、それはある一定のものを保っている、と考えています。けれども、多くの方が観るようなエントリで感情ともいえない大きな情報の波が存在したとき、スルーしていても、我慢することができなかったものが、あるきっかけを伴ったとき初めてパーソナリティとして考えていたものと「まったく違う」傷として見えることがあるんです。時折そういった「何か」として存在する発言を見て、それが自分のことである場合、私自身がそれをうまく受け止めきれない。別の人格が動き出したように見える「何か」というか、そんなものです。
だからその場合、なぜそのような行動をとったのか、なぜそのような発言をしたのか当人にも分からないし、自覚することが出来ないまま反射的な反応としてソレを見せる。見せた後、なぜこのようなことをしたのだろう、とむしろ当人が途方にくれてしまうこともあるのだろうと思います。たぶん、私の妄想なのかもしれません。
思い当たる方がいれば、私はその方を責められないかもしれません。原因の一端が私にあるということです。
ツリ自体は私はかまわないと思います。むしろつられてつられ返されることが意識的に出来れば面白いかなとは思いますが、好んでしようとは思いません。シロクマさんに意図的な感じでしたことはありますが、それは好意的*1なものです。

*1:信頼性。好意という言語使用はあとでどうなんだろう、と思った。

説明書き

私は”「偶然」と読み取るという事象が理解できない”ことで「疲れる」ことが多い。偶然があるということは「社会性」を持つ、ということなのでしょう。「偶然」と理解する、ということには重要な要素がある。それが「自分にあてられたものではない」という感覚。つまり「気にしないように」とは「偶然」という認識を念頭に置いている。この「偶然」を「共感」として適用しているために、「気にしないように」という感覚を共有するのだと私は考えている。けれども、そう読み込まれるということはそれ自体で「社会性」を持ち、含まれているということ。そして、その「社会性」に気づくのが、私はワンテンポ遅い。いつのまに、そんな風に思われていたのかと思う。そして、「言葉として怒りとして指し示され」ようやく「自分のことだったのか」と気づく。
付け加えると、私は「パーソナリティ」を把握できたうえで行動し、情報がよいものならばいいと思う。そしてそれはひどく個人的なものでしかない。個人的に動く人間は、個人的な人間として世界をみているため、第三者として認識を共有すること自体に加わりにくいのです。
また、私には特殊や感情や繊細な感情はありません。私はパーソナリティの内的評価を言葉ではなく、言葉を放つときの状況や態度も含めて理解します。また、それは文脈や一文だけでなく、時間をかけながらその対象を観察してようやく見えるものでしょう。
また、私は罪悪感に訴えるものがあることに逆らえない、というものがあります。仮に冗談であったとしても、それの区別ができないまま記憶に貯蔵されることでそれを意志に逆らえずに実行していることがある。自己評価というものがそもそもたぶんすごく低いために、他者評価=自己評価と近い状態になってしまっている気がします。だから全ての評価を自分の基準としてしまって、それらを0か1かのパラドックスと考えてしまうことがあります。
周囲の誰がどのように私を評価していようと、私とコンタクトをとって私が「私の言葉である」と認識できた言葉というのはこれまでないと考えるので、それは、私の想いや望み、言葉ではありません。ただそれら言葉は、やはり個人が個別に判断して発言したものであると思います。個人主義というわけではないけれども、認識として個別判断で動いている、ということが前提としてあることは了承していただきたいと思います。また、私の言葉を絶対的なものとして扱う理由はまったくないのです。
説明責任、というのは苦しいものだと思いました。とる必要も、もしかしたら責任もないのかもしれないけれども、「とりたい」と私は考えたので述べることにしました。
また、「訴える」ことと「働きかける」ことが別問題であることは、前提として理解していただきたいのです。私は「訴える」=「働きかける」ということは記していませんが、誤解を招く表記であったと思います。「訴える」ことが法的に正当であるならば、それは私自身、正当であるという判断が個人にあるのならば、私がそれについて言うことはできません。
また、記述不足で無用な誤解や、流布によってこちらの情報が何らかの不正義に利用されたとするならば、それは私の責任なのでしょう。
以前から断片的な情報として「感想」がのぼり、それがタイミングを同期として似たようなことを述べていたようなことがありました。名指しが行われない批判などによって、おぼろげながら私の「情報」が関連付けられているのだろうか、と考えたことがあります。それが、私個人の妄想であるかそうでないかという判断がつかず、私のことではないのだろう――噂話しが「私」をメインにされることなどありえないと考えていました。さまざまなサイトでその情報を事前に確認するという決断をすることもできないままでした。それによって、最も被害を受けた方に謝罪いたします。
また、私は私自身の言葉として話したいので、やはり、なんらかに言及した方は、個人が自分の言葉として受け持つか、言葉の意図は私が言葉として出さない限り、そのような解釈はありませんし、また「解釈した個人」の意見として解釈します。ほかにもいろいろと考え方はあるのかもしれませんが、また考えがまとまれば、もっとこのような言い方にならない方法も見つかると思います。

情報と空気

個人名を明らかにして書けば、それはその人の個人的な意見になる。
ところが、匿名で何かを書くと、あたかもそれが社会の「空気」であるかのような錯覚が生じる。

茂木健一郎 クオリア日記: 情報倫理

茂木氏のこの批判は誤解される可能性があるかもしれない。
顕名、匿名としてではなく、個人的な意見と匿名による解釈に分かれる、といいたいのだろうと思う。つまり、顕名であれば周囲の解釈がどうあれそれは個人的な立場の表明であると解釈されやすい。社会的立場から読み込むことで、その人の「考え方」や「視点」が周囲にも容易に把握できる。けれども、匿名の場合「立場」であるのか「視点」であるのかという部分が解釈しだいでは判別しにくくなってしまう。偶然性、蓋然性を伴った「空気」がネットワークに広がり、「空気」という記憶と結びついた現在における想起が、真実として語られる――これが流言というものなのでしょう。そして茂木氏は、「空気」であるけれども、それが「真実」として語られることが錯覚された「鏡」であり、「特殊性」と云っているのだろうと思う。そして、その対処法として、総括した「匿名意見」――「流言」と成った意見は無視する、というのが茂木氏の考えなのでしょう。

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合理的解決法

余計なことを言ってしまうことがよくある。同じことの繰り返し――とそうなってしまった状況の原因を考え途方にくれている。だから、人間の認知メカニズムがほしかった。
私は以前から集団についての合理的解決法を提案するのが好き、といってはおかしいのかもしれないけれど、そうしてすっきりして心が軽くなった、と思い嬉しそうな顔を見るのが嬉しかった。子どもの頃から人間関係の問題の当事者で、いろいろとあったことの経験から、合理的解法を求めているのかもしれない。むしろ、当事者となっても私自身を「いないものとして扱い」、第三者であることが「いい」と思っているのかもしれない。なぜなら、そうすることでしか、幼い頃生き残れなかったからだ。私は何かしらトラブルが起こったとき、感情を発散させるほうを選べなくなった。「感情」とは罪悪感――なのだろう。しかし、自分がどの位置にある「感情」を抱いているのかがわからないから、精神疾患抑うつ)や身体症状として顕れるのだろうか。
またそれが原因で状況の板挟みとなることは多い。こういった場合は、当事者が第三者としてあるのではなく、環境から考えた第三者が仲裁することがよかったのだろうと今になっては思うが、染み付いた性向はいつまでも変えられない――どうしたらいいものかと悩んでいろいろとモデリングをして最適解を模索している。

ブクマコメントのお返事

感情を発散させるほうを選べなくなった ――私も小2ごろからそうだなー。そして嘘泣き/嘘怒りもできないので、ただニヤニヤ。それは他者に近づきすぎないことを意味する。

mindさんは小2のときのことを覚えてるんですね……mindさんと同じかはわかりませんが、私の場合では同様の年齢ぐらいから他人の状態、自分の状態が別世界のような状態だったのを覚えています。
描写が難しいのですが、視点を浮かせて、茫洋とした視線で身体感覚がない――ってこれは多分解離状態離人状態だったのかもしれません。その頃から、暴力的な絵やアニメで凌いでいたという。
嘘泣き/嘘怒りっていうのもあるんですか……。泣くときは苦しいから泣く、怒るときも苦しいから怒る、というものだとばかり思っていました。つまり、私にとって全ての感情は身体感覚にもあらわれるくらいの苦痛を耐えて、それでもなお耐え切れない場合に爆発するというようなものなんです。ただ、この場合「発散させるほうを選べなくなった」というよりも、最近「発散すると何も生まれない」という信念に基づいているもののような気がしてきました。これでかなり自分自身を削って、むしろ他者に迷惑をかけることになっている気がします。
私自身、態度では「他者に近づかないようにしよう」というのがわかってしまうのかもしれません。仮に近づいたとしても「私自身」としてどうしても語れて居ない気がする。
ただ、中立は「欲望」と「欲望」の間から入ることがあって、しかも少数派の中でも態度としては大変な役になることから、両者からは「態度」そのものを理解されないことがあります。外部からは、説明なしではどの「位置」として存在しているのかがわからないため、どのように見られているか、ということは把握することも必要なのだと思います。
mindさんは近づきすぎないとしても、中立的な態度を心がけているところを私は好きだと思っています。